ひとりオーケストラ――イタリア協奏曲(1)
バッハの時代、ヨーロッパにおける文化の中心はイタリアだった。
音楽はもちろん、美術もその他の芸術も、である。
バッハ以前の、あの〝ルネサンス″を想えばこれは明らかだ。
イタリアに次ぐのはフランス。
ドイツ圏の芸術家たちはイタリア、フランスを手本にするしかなかった。
これはバッハのあともしばらく続く。
たとえばモーツアルト。
就職活動のためにわざわざイタリアまで行ったリしたこの人は、
イタリアふうのペンネームというか芸名というか、とにかくそこまで考えた。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。
この「アマデウス」は何を隠そう、本名を当時流行のラテン系に
変えたものである。日本でも、戦後主としてジャズ・プレーヤーや
ポップス歌手などが、「バツキー白片」とか「トニー谷」、「フランク永井」
などと名乗った。あれとつまりは同じだ。
決して「アマで~す」と謙遜したものではないのであーる。
そうか、バッハの話だった。
バッハは1735年、「イタリア好みの協奏曲」という曲を出版する。
たぶん合本になっていたのだろうが、一緒に出た曲があって、
それは「フランス序曲」。ね? イタリアとフランスですよ。
僕が「アメリカン・ファンタジ1」と「中国ふう舞曲集」を作曲して
一緒に出版するようなものだ。やれ民族的な主張だ、
やれアイデンティティだ、なんてまるで関係ない。
だいたい芸術の創作の意識に、そのようなものが浮上してくるのは
19世紀はじめくらいに至ってからである。バッハは、作曲という
自分の営為がドイツ民族にとって何なのか、などとまったく
考えなかったにちかいない。それどころか、自分の音楽作品がのちのち
まで残り偉大な芸術として広く鑑賞され、20世紀も終わううかという頃、
あろうことか遠い日本なる国で全然知らない作曲家か自分の曲について
雑誌に駄文を連載するなんて、ただの一瞬も思わなかったのであーる。
また脱線してしまった。
とにかく、ドイツ人のバッハが「イタリア」や「フランス」を自作の
タイトルにつける。そのことについて現代の感覚であれこれ言うことはない、
と、そういうことなのだ。
バッハの音符たち ―池辺晋一郎の「新バッハ考」― より
バッハの音符たち―池辺晋一...
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/70903/3505116
この記事へのトラックバック一覧です: ひとりオーケストラ――イタリア協奏曲(1):

コメント