バッハは、1723年からライプツィヒの聖トーマス教会付属学校
のカントルを務めた。カントルというのは要するに教会の学校の
音楽教師のことだが、町全体の教会音楽の音楽監督でもある。
それまでは、ケーテンという町の宮廷楽長だった。
ライプツィヒヘ移ると、給料はケーテンの4分の1くらいになって
しまったらしいが、それでもバッハは教会音楽に携わりたくて、
ライプツィヒへの移転を志したらしい。
というような視点には一切触れない、というのかこの連載の建前で
あったな‥…・。自分で裏切ってはいかんのだけど、しかし今回は
話の都合上少し触れなければならない。
このライプツィヒのカントル時代に、バッハはポツダムのフリードリヒ
大王の宮殿を訪問した。もはや晩年。1747年5月のことであった。 .
きっかけは、バッハの次男力ール・フィリップ・工マヌ工ルが、
この大王に仕えていたから。フリードリヒは音楽が大好きで、
自らフルートをかなりよく吹き、なおかつ作曲もしたと伝えられている。
大王の前で、老バッハは次々と名人芸を披還した。バッハを深く
尊敬していた大王かどんなに歓んだか、想像に難くない。
そこでバッハは、大王をさらに歓ばせるべく、即興演奏のテーマを所望する。
つまり、大王作のテーマにより即興でフーガを弾きましょう、というわけだ。
ほうほう、それで、などとただ領いていたりしてはいけない。
これはスゴイことなのである。
音楽のフォルムすなわち形式というものにはそれぞれ「決まり」があるけれど、
フーガほどその決まりが厳格で数多いものはない。言うならば究極のフォルム。
作曲をアカデミックに勉強する者は今でも、 このフーガの学習に苦しめられる。
それを即興でやっちゃう。
いやあこれはすごい。まことに。
ところでしかし、即興とは本質的に楽しいものである。
かくいう僕も、実は大好きだ。
先日、佐渡に本拠を置く太鼓集団「鼓童」 のために、委嘱を受け新作を書いた。
作曲にあたり、まずは佐渡を訪ねて彼らの日常の練習を見せてもらった。
4月のことである。
1日め、練習を聴き、かつ「鼓童」が持っている楽器を細大もらさず見せてもらう。
2日め、宿で僕は太鼓アンサンブルの、せいぜい20小節くらいの断片を5、6個
作曲し、練習場へ持参。それをみなでさっそ<演奏。
はじめのその20小節以後は即興だ。これがすばらしくおもしろかった。
みな、生き生きと叩いている。どんどんノってくる。もう、僕はじっとしておれない。
広い練習場の隅にグランドピアノ。
飛びついたね、僕。突然ピアノの音が闖入したから、一瞬みなびっくりしたよう
だったが、たちまち歓迎の笑顔となり、いつ終わるともしれぬセッションが展開された。
本来、僕が作曲する委嘱新作のためのヒント、またはテストであるはずだったのに、
そんなことはどこかへ吹っ飛んでしまった。
なんと楽しかったことか……。ことほどさように、僕は即興が好きなのである。
ついでに「その後」 の話を二つ追加。
この即興テストの楽しさは、しかし皮肉なことに本格的な作曲をやりに
くくしてしまった。つまリ、楽譜として定着させる必然が見えにくくなってしまった
のである。あれだけすてきにできちゃうんだから、即興でいいではないか。
なぜ、書かなきゃならんのだ? まったく予想もしなかったことで、
僕はずいぶん苦しんだ。だが、約束よりかなり遅れたとはいえ、
なんとか曲は仕上がり、11月、新潟市の新しい音楽ホールのこけら落とし
の一環として、無事「鼓童」 の見事な演奏で初演された。
もうひとつの話は、そのコンサートでのこと。拙作ではないが、ゲストの一人として、
ジャズ・ピアニストの山下洋輔さんが加わっていた。すぼらしい演奏に聴衆が
すっかり酔って、さあいよいよ終演。「鼓童」全員の太鼓と洋輔さん、アンコールの
大セッション。このとき僕はステージ袖にいたのだが、飛び出していきたい衝動を
抑えるのにそれはもう一苦労だった。
飛び出して弾いちゃえばよかったのに、ですって? できるわけないでしょ。
名手洋輔氏が弾いてるんだよ。さっきから僕は、即興が好き、と言ってるのであって、
得意ともウマイとも、ひとことも言っとりません。
バッハの音符たち ―池辺晋一郎の「新バッハ考」― より
バッハの音符たち―池辺晋一...
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